SSブログ

「自己成就予言」の心理学 [日記・コラム・つぶやき]

別のブログでほったらかしにしていたものを削除していて、そのブログの最初に書いてあった記事にたどり着いたのだが、もったいないからこっちに転載しておく。温泉記事でもなんでもないので、昔こんなこと書いていたという備忘録。ちなみに現在の会社ではなく、前の会社時代の、10年前くらいの記事。

以下、転載

 わが社では一足遅く7月が賞与月で、6月は管理職として人事考課をしたりもする。どこの会社でも、人事部からは自己目標・課題申告書などを部下に書かせろとか、あり体の提出物を求められる。相対評価だとか絶対評価だとか、成果主義だとかいろいろあるが、果たして人を評価するということは難しいことであるという認識が、評価者にかけていると、哀れである。


 形式的には、どの会社も似たようなことをやって、人が人を評価したりする。評価する前に、評価する側として、評価者たるに値することをやっているのかという問いが、実は一番大事だったりする。無能者が無能者を評価しても始まらないし、無能者が有能な部下を評価も導きもできやしないのであれば、お話の手前である。


以下の文章の概要は、私が師事している恩人が、おまえたち、よくこういうことを考えろよ、とご教授いただいたときのメモ的なものなのだが、わがブログにも掲載しておこうと思って、多少加筆した。


人を育てる、「自己成就予言」の心理学


 自分が管理者の立場にあって、何か、営業目標でもスポーツの成績でもいい、期待される目標、ノルマがあって、それを実現させることは中々難しいことだ。

 

一番よいのは、有能な部下、選手が、能力を遺憾なく発揮する環境を与えてあげて、選手たちも自らに期待がもてる目標を持ち、その努力を褒められることで、自律的に結果を出してゆくプロセスだ。

 相手に期待を持たせ、努力をほめてやれば、結果はよい方向(そうあって欲しいと望む方向)に必ず出る。 人は、本来、自分が期待されていると感じると、その期待に応えようと努力するものだ。この努力している姿、態度、行動をほめられると、さらに「やってやろう」という気持ちになる。いわゆる、その気にさせる動機付けとなる。

 部下は、自らが掲げた目標を成就してゆく、そのこと自身を自らが宣言し、公言してやりきる、やりきってさらに自信をつけ、期待を膨らませてゆく。

 「自己成就予言」をすれば、自分が期待されているように必ずなるという暗示がかかり、「期待される姿、結果」に向かう行動を自ら進んでとるようになるものである。


何をほめるか?


 本人の能力、性格、資質を褒めるのでなく、努力したこと=態度や行動を褒める。すなわち、本人がその気になれば変えることができる行動面について褒めることが大切である。 逆に、戒めの場合でも「努力不測」を指摘されると受容できるが、「無能」呼ばわりされると、どうしようもない。


 これはあくまでも、その集団の潜在能力、態度が褒めるに値するはずだということが前提である。褒めるべき本源的価値がないと、これはもうお手上げだ。人間というのは中々、変われない。第一印象で、こいつはダメだと思ったやつは、やっぱりダメなままであることが多いが、本当は、誰でも、その気になってがんばれば、できる人間になる可能性はある。それは、どこかの将軍のことばじゃあないけれど、やって見せて、褒めてみて、お願いして、やらせないと人は動かないものだろうが、動かす努力はしてみたいものだ。


自分とは異質な個性を持っている部下を使い別ける


 元々、企業集団は、クラブや同好会と異なり、相性やウマが合うもの同士が集まっているわけではない。それぞれが持つ個性を目的達成のためにうまく機能させてゆくことが大事だ。うまく行けば個性と個性の協調が、さらなる成長をもたらすが、ひとつの方法論で、異なる個性のものを縛り付けては、相乗効果は期待できないし、上司の個性にあったものだけが追従し、異能の、ずれた個性の、でも能力はある者の活躍は見出せないし、もったいない結果になる。


 個性、センス、ひとつの結論に到達する相対的にはどちらでもよい方法を選択するときの方法論的趣味、それはひとそれぞれである。気に入らない、という感情は極めて重要ではあるが、事の優先事項はいったいなんなのか、ということを気づく事、我慢することも時には大事である。

パブリックコメント=公言と、それを実行させる動機付け


 新人王を狙います。と18歳の楽天田中投手。この目標公言がパブリックコメント。これが言えることが正に田中君がプロの証。 「そのために自分が何をしなくてはいけないのか」を自覚し、自ら行動するようになる。途中でうまく結果がでていなくても、「言い訳」や「ないものねだり」はしがたい。なぜなら、自分で決めたことだから。アドバイスする側は「どの様に実行するのか」「どのようにしているのか」を聞き出し、フォローしてゆけばいい。


 ここで問題になるのは、「自分で決めたこと」が本当に「自己成就予言」として可能性のあるチャレンジ目標であるのか、という真偽である。押し付けて、そういわざるを得ない目標は「自己成就予言」でもなんでもなく、切支丹の踏み絵でしかない。そんなものは、端からどうせできないと思っているから、簡単に「努力が足りなかった、今度はがんばります」とか、申し訳の大安売りが始まる。意味がない。


 なぜ、成績があがらないのか、


 どの業界のどの営業現場ではよくある「追求」だ。

 なぜ=Whyを追求すると、往々にして言い訳、ないものねだりとなり、最後には「申し訳ありませんでした、次はがんばります」となって、本当の原因が改善されない。この間もがんばりますといってできなかった、今度はどうする、となって「私に能力がなかったので、私がバカだったので、、、」、責任をとってやめます、という暗い結論にいたる。あまりにもノルマを達成しなければと脅迫観念に攻め立てられてコンプライアンスの土台を踏み外してしまえば、元も子もない。ひとつのコンプラ違反が企業を滅ぼす時代である。


 そうではなく、「君はどのようにやっているのか?」、具体的なところ聞き出し、それに一つ一つアドバイスをする。アドバイスされる側は納得し、「今までと違った方法」に挑戦したり、自分の態度・行動を見直すことのきっかけになる。当然、アドバイスする側は、「私だったらこうする、こうやってできた」というそれなりの実績がなければ、お話にならない。ことの帰結は「やることはやった、だったらあんたがやれよ」という捨て台詞と不幸な決裂を招くだけだ。


 果たして、自分はどうなのか。

 部下の個性を認め、自律を促すアドバイスができているのか、アドバイスを言うに足る自らの能力、実績はあるのか、やるべきことをやっているのか、自省する次第だが、幸いなことに、今のわがチームは、どこへ出しても文句のつけようのない、個性的な能力も充分そなわったメンバーで、私が突然、関越の飛ばしすぎで死んだとしても、なんとかやってゆけるものは身についているから安心。


 そういえば、「部長に、あんまりああせえ、こうしろと、いわれたことがない」とよく部下たちが言う。私も上司にああしろこうしろ、といわれたことはほとんどない。いわれる前に、これをすべきだ、こうしよう、こうしましょう、これならできますからやりましょう、こうしたいけれどまだ能力がないのでその点、今のうちに勉強しておきます、もう部長、先に帰ってください、あとやっておきますから、今度はこういう選択肢で、こういうことなので、こうしますけど、どうですか、、、、とどんどん仕事をやってきた。今の部下たちも、すっかりそんな集団になっている。自分たちにエンジンがついているから勝手に走る。ただ、そっちの道はいくな、危ないからとだけ、アドバイスはするけれど。でも、そっちの道へ行ってしまったら、責任は取ってあげます。なんか困ったことに直面したら、最後に責任とるのがボスキャラの仕事ですから。

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0